番外編『Cloud クラウド』映画評

転売屋として活動する男が、軽い気持ちで手を染めた行為が、底なしの悪夢へと繋がる過程を、黒沢清監督は冷徹なまでにスリリングに描き出す。最新作『Cloud クラウド』は、現代社会の病理を鮮烈なバイオレンス描写で彩りながら、観客を底知れぬ恐怖の淵へと突き落とすサスペンススリラーだ。インターネットの普及は、私たちに膨大な情報へのアクセスと世界中の人々との繋がりをもたらした。だが、その恩恵の裏側には、匿名性という仮面の下、憎悪と悪意が増幅し、SNSでの誹謗中傷、炎上、フェイクニュースが蔓延する。 黒沢清監督は、現代社会が抱える闇を容赦なく暴き出し、その恐怖を私たちに突きつける。本作は、まもなくアメリカで開催される国際長編映画賞の日本代表作品にも選出され、世界からも大きな注目を集めている。

物語の主人公、吉井良介(菅田将暉)は、転売で生計を立てる男だ。世間一般的には「転売ヤー」と呼ばれ、忌み嫌われる存在だが、彼自身は「需要と供給のバランスを利用しているだけ」と、罪の意識は薄い。映画冒頭、薄暗い部屋で黙々と商品を梱包する吉井の姿は、どこか冷淡で、現代社会の歪みを象徴するかのようだ。菅田将暉は、ギラギラとした目で利益を追求する吉井を、見事に体現している。彼の視線の先にあるのは、ささやかな幸せではなく、カネへの飽くなき執着。そして、その執着こそが、彼を破滅へと導く行為へと駆り立てるのだ。

吉井の恋人・秋子(古川琴音)は、謎めいた存在として描かれている。吉井でさえも、彼女の過去や本心を知らない。ミステリアスな雰囲気を漂わせる秋子は、吉井の心を捉えて離さない。古川琴音は、少ないセリフと表情で、秋子の持つ不可解さと脆さを表現し、物語に底知れぬ不穏さを醸し出す。「otocoto」のインタビューで古川が語っているように、秋子は「吉井にとって、一時の安らぎを与える存在」なのか、それとも「更なる闇に引きずり込む存在」なのか、観客は固唾を呑んで見守ることになるだろう。二人の共演シーンでは、危ういバランスで成り立つ関係性が、繊細な演技によって表現されており、観る者を惹きつける。

また、吉井の転売仲間である村岡(窪田正孝)は、吉井とは対照的に、明るく社交的な性格で、吉井を転売の世界に引き込んだ張本人だ。窪田正孝は、持ち前の存在感で、村岡を魅力的に演じている。軽妙な演技で物語に緩急をつけながらも、所々で見せる冷酷な表情で、観客に強烈な印象を残す。

吉井に雇われたバイト青年・佐野を演じるのは、奥平大兼。佐野は、吉井の指示で商品を買い占めるなど、転売の片棒を担がされることになる。どこか影のある佇まいで、何を考えているのか掴みどころのない青年だ。奥平は、無表情ながらも、時折見せる鋭い眼光で、佐野の内に秘めた狂気を表現する。吉井の転落が加速していく中で、佐野の存在感は次第に増していく。果たして彼は、吉井にとって敵なのか、味方なのか? それとも…? その真意は、観る者の解釈に委ねられている。

ある日、吉井の日常は脆くも崩れ去る。ネット上で彼に対する誹謗中傷が始まり、やがてそれは、彼を追い詰める現実の脅威へと姿を変えるのだ。黒沢監督は、前半、静寂と不穏さを巧みに操りながら、観客をじわじわと恐怖の淵へと誘う。まるで何者かに監視されているかのような閉塞感漂う映像、意味深なセリフの数々、そして菅田将暉が見せる不安と焦燥に駆られる名演。それらが一体となり、観客は吉井の日常に忍び寄る影を、我が事のように感じ始める。

そして後半、物語は急転直下、衝撃的な展開を見せる。吉井を襲うのは、ネット空間から生まれた不特定多数の集団、「クラウド」だ。彼らは、まるで悪夢のような存在として、吉井の平穏な日常を容赦なく破壊していく。形を持たず、どこからともなく現れ、個人の存在を飲み込んでいく。その様は、まさに現代社会の闇の具現化であり、私たちが漠然と抱いている恐怖を体現しているかのようだ。黒沢監督は、取材記事の中で、この「クラウド」を「現代社会に蔓延する欲求不満や歪みが、インターネットを通して増幅され、集結したもの」と表現している。

追い詰められていく吉井を演じる菅田将暉の鬼気迫る演技は、本作の大きな見どころだ。恐怖、怒り、絶望…、複雑な感情の渦を、全身全霊で表現し、観客を物語に没入させる。「GQ JAPAN」のインタビューで彼が語っているように、黒沢監督から「今まで演じてきた役柄の中で一番嫌な奴を演じてほしい」と言われたという吉井役は、彼の新境地と言えるだろう。

ネットカフェで生活する男・三宅を演じる岡山天音は、独特の存在感で、物語に奇妙なリアリティを与える。吉井が勤める工場の社長・滝本を演じる荒川良々は、飄々とした雰囲気の中に、どこか不気味さを漂わせる。個性豊かな俳優陣が脇を固め、物語に厚みを与えている。

『Cloud クラウド』は、現代社会に対する痛烈な批判であり、人間の心の闇を映し出す鏡である。インターネットという便利なツールは、匿名性という影に隠れ、他者を傷つける言葉を簡単に発信することを可能にした。その結果、私たちは、誰もが「クラウド」の一部となり、誰かを攻撃する側に回ってしまう可能性を秘めているのだ。黒沢監督は、観客に救済を与えることなく、現代社会の残酷な現実を突きつける。そして、観客一人ひとりに問いかける。「あなたは、この悪夢から逃れられると、本当に思っているのか?」と。

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